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災害復興支援室 活動報告「ファシリテーション わたしたちにできること」

あの時、ファシリテーターたちは──

2011年3月11日に日本を襲った東日本大震災。日本ファシリテーション協会では、ファシリテーションによる復興支援を行うべく、発災から約2週間後の3月27日に災害復興支援室を設置、4年半経過する今も活動を継続しています。

災害復興支援室は、未曾有の大災害の復興にファシリテーションがどう貢献できるか─さらにいえばFAJというNPO法人として─という自分たち自身への問いを持ち続けての活動でもあります。本Open FAJサイトでは、近日中に発行予定の「災害復興支援室活動報告書」の一部を抜粋、支援室の初期メンバーであるファシリテーター3名(徳田太郎、遠藤智栄、鈴木まり子)が当時、何を体験し、何を感じ、考え、どう動いたかをご紹介します。

 

 呆然とテレビの画面を見るしかなかった。そこにいる誰もが黙って見入っていた。韓国の仁川国際空港ロビー。徳田太郎は、口にする言葉も見つからず、ただただ、津波が街を襲う映像を見ていた。久しぶりの休暇で韓国に来ていたのだが、そのタイミングでこんなことが起きるとは…。帰国便は欠航となった。同じく足止めされている日本人旅行者で現地ツアーコンダクターが帰ってしまった団体がいたため、自身のツアーコンダクターにそちらもサポートしてもらえるよう交渉をするなどその場でできることをしていたが、一方で、日本から遠く離れた地にいることに、じりじりと焦燥感がこみあげてきていた。

 

 同じ頃、鈴木まり子は横浜市中心部に向かう路線バスの中にいた。戸塚区内で実施していたファシリテーション研修は地震のため会場が閉鎖となり途中で中止となった。鉄道はすべて不通。道路はひどく渋滞し、バスはのろのろと進み、いつ着くのか見当もつかなかった。外は停電で暗く、満員の車内は重苦しい空気に包まれていた。鈴木は、ふとバッグの中に飴が入っていることを思い出した。

 「あの、よかったら、これどうですか」明るい声で周囲の乗客に声をかける。「ありがとうございます」手にした者は口々に礼を言った。つられるように、飴や菓子を持っている人が配り始め、それをきっかけに今日体験したことなどポツポツと会話も生まれだした。

 結局、何もなければ1時間くらいの横浜駅に着いたのは出発してから6時間後、すでに23時をまわっていた。皆かなり疲れていたが、不思議と車内の雰囲気は出発時とはだいぶ違うものになっていた。鈴木は、そのまま横浜駅で一泊することになった。

 

 仙台市に住む遠藤は、最初の揺れが襲ってきた時、市内のカフェでFAJ仙台サロン(当時)の例会の打合せをしているところだった。激しい揺れがおさまった後、徒歩で自宅マンションに帰ったが、電気、ガス、水道が止まっていたため、付近にあるNHK仙台放送局に行き、そこで見た映像で初めて沿岸部の津波の被害を知った。

これは、大変なことになった──。

 自宅マンションはそれほど大きな被害を受けていなかったためその日は部屋で一夜を過ごしたのだが、他の住民のことが気になった。「私たちは運良くケガひとつしていないが、他の人たちはどうだろうか…」翌日、遠藤はイーゼルパッドを取り出し、そのうちの2枚をマンションの一階に貼り出した。一枚には、「みなさんの状況をご記入ください」と記した文字とともに各戸の部屋番号を記した表を、もう一枚には「ベランダの壁に破損がある方ご記入ください」と書き、その横に太い水性ペンをひもでぶら下げた。安否確認の表には徐々に各戸の安否が記入されるようになり、その前を通る住民たちを安心させた。

 

 

ファシリテーターたちの3月11日 

災害復興支援室の設置 

 韓国の徳田は、翌12日の便で帰国できることになった。つくば市の自宅に戻ってからはやるべきことが山積みだった。徳田はファシリテーターを生業とするとともに、FAJの会長、茨城NPOセンター・コモンズの理事、つくば市民大学を運営するウニベルシタスつくばの代表幹事と、多方面で活動をしていた。特に全国に会員がいるFAJには被災した人もいるかもしれず、会員の安否を案ずる人も多いだろう。徳田は、全会員が登録されているメーリングリストにメッセージを発した。

 

 

 今般の東北地方太平洋沖地震に関しまして、まだ事態は流動的ですが、取り急ぎひとこと申し上げます。

 まずは、被災をされたみなさまに、心よりお見舞い申し上げます。また、さまざまな形で救援・支援に携わっていらっしゃる方も多いかと存じます。本当に頭の下がる思いです。

 被災地のみなさまへ。まずは、ご自身やご家族の安全を第一になさってくださいませ。全国の仲間も、それぞれの形で応援しています。そして、ちょっとでも気持ちに余裕ができた方は、ご無理のない範囲で、ぜひ周りの方にもお声をかけていただければと思います。心身等に障碍のある方、病気や怪我の方、高齢の方や乳幼児をお連れの方、日本語が不自由な方、そして、さまざまな不安を抱えている方など、声を掛けあい、励ましあうだけでも、そこから必ず力が生まれるはずです。

 全国のみなさまへ。まずは、それぞれのふだんの現場で、ふだんの活動をすることが、いま私たちにできる、最大の支援です。そして、さまざまな形で「共助」の動きが生まれています。情報を冷静に見極めつつ、それぞれの得意分野や、FAJで身につけたマインドとスキルを最大限に発揮して、できることから少しずつ状況を動かしてまいりましょう。

 余震が続いています。どうかご注意を。乱筆乱文、ご容赦くださいませ。

 

 

 ここで注目したいのは、早くも現状に対してファシリテーションによる何かしらの支援を示唆していることだ。

 茨城県内でのさまざまな支援活動に携わりつつ、先のメールの3日後、徳田はFAJの理事会メーリングリストに新たなメールを投稿した。

 

 

 震災に関して、法人としてできること、すべきことを、短期—中長期で整理したいと思います。

 短期的に大切なこととして「安否確認」がありますが、こちらはすでに、小藤(ことう)さんはじめ事務局のみなさんに、鋭意進めていただいております。

 そして、中長期では、われわれの強みを活かした活動をしていくべきかと思います。すでに、停電や原発に関連し、専門家と市民との橋渡しをする科学コミュニケーションの必要性がいわれたりしていますが、それ以上に私たちの得意分野でいえば、臨時コミュニティにおけるコミュニケーションでしょう。

 すでに本日から、福島県民の被曝を避けるため、茨城県内への受け入れが始まっています。また、今後は、仮設住宅等の建設も進みます。ぜひ今から、少しずつ「うごき」を考えていきたいと思います。理事会での検討、事務局でのサポートをお願いいたします。

 ただ残念なのは、遠藤さんと徳田が、少なくともしばらくの間は、それぞれの現場の「うごき」で手一杯となってしまうということです。そこで、必要があれば、フェローのみなさん、神戸での知見を有する会員さんなどを含めた、特命プロジェクトを立ち上げてもよいと思います。

 本日13時には、「震災ボランティア・NPOと政府の連携を考える会」も行われます。私たちも、NPOの一員として、自らの強みを活かしていきましょう。

 

 

 徳田が特にここで伝えたかったのは、FAJがNPO法人として何ができるか、何をすべきか、ということだった。これに対し、すぐに反応を示したのが鈴木まり子だった。

 

 

 徳田さんの投稿に対する鈴木の考えを記します。

 今…安否確認と緊急対応に関し、法人として議論している時間がないと判断したものは、個人で動く。善意での行為に関しては、理事会も規程などにこだわらず寛大に。

 短期…開催可能な地域では、定例会やイベントを安易に中止しないで、長期的にFAJがFAJらしく復興に貢献するために、質の高い学びや対話の場をつくり、それぞれのファシリテーションの能力を高めておく。また、身近で緊急に話し合いのファシリテーターが必要な場合、従来のプログラムよりゆるい条件でファシリテーターを募集することも委員会で議論してほしいと思います。

 長期…これから長い復興の道がはじまります。色々な対立や課題解決の話し合いが続くでしょう。そのとき、「FAJをどんどん使ってください」といえるだけの力を持った団体にしていかなければいけません。今は、メディアも人もこの震災に関心があります。でも、FAJは、メディアが取り上げなくなり、人々が関心を持たなくなっても支援を続けたいと思います。

 今後について…徳田さん、遠藤さんの代わりになれるか分かりませんが、社会への窓口係として、特命プロジェクトの立ち上げに動きます。そのときのメンバーは、FAJの会員に限らず、プロフェッショナルなファシリテーターも視野に入れたいと思います。

 なくてはならないFAJになるために。

 

 

 鈴木は父親が長年ボランティア活動に携わっていたため、幼いころから自然に社会的な活動に親しんでおり、思いも強いものがあった。学ぶことも大切だが、それは社会に貢献するためのもの。FAJとして、もっと社会的課題の解決に積極的に関与していきたい──そんな思いが以前からあったのだ。

 この二人からの投稿に対し、監事の田坂逸朗(いつお)も共感の反応を示した。それに意を強くした鈴木は、翌17日には次回理事会への議題を提出。なんとしてもこの「特命プロジェクト」はカタチにしたい。もし認められないのなら個人で動こう。そこまで思いつめていた。

 

 3月27日、発災後初めての理事会が行われた。通常は全国の理事が一同に会して行うが、この日は東京、大阪の2会場をスカイプでつないでの実施だった。東京会場は、電力不足が社会問題になっていることから照明を減らし、暖房も抑え気味にして─という状況だった。議題はいつにも増して多かったが、鈴木が提出した「特命プロジェクト」設置は最初に話し合われ、予算と共に速やかに議決された。「災害復興支援室を設置、ボードメンバーとして徳田、鈴木、遠藤の3 名を指名し、その他のメンバーの人選や活動計画はすべてこの3 名に委任する」というものだった。震災の被害は今も進み続けている。月一回しかない理事会でじっくりと話し合う余裕はないという判断だ。

 さらに理事会後には、事務局機能を担うクルーとして田頭篤、小藤輝正、杉村郁雄の3 名に、アドバイザーとしてFAJフェローや阪神淡路大震災での活動経験者である池田隆年、加留部(かるべ)貴行、黒田由貴子、中野民夫、西修、堀公俊(きみとし)の6 名に、それぞれ就任を依頼することになった。こうして災害復興支援室としての活動がスタートした。

 

 仙台で被災した遠藤はNPOや地域・自治体のまちづくりを支援することを職業としていたため、すでに被災地でのボランティアセンター運営協力など、さまざまな支援活動に入っていた。徳田、鈴木は遠藤とのミーティングを持ちたかったが、それが叶わない。どうしたものか…。そんな折、遠藤から短いメールが送られてきた。

 「二人で、こっちに来ない?」

 遠藤が来られないなら、こちらから行けばよい。しかも、現地に行くことで多くの情報を得ることもでき、今後の活動へのヒントも必ず見つかるだろう。三人はさっそくスケジュールを調整し、4月8日〜10日の3日間、仙台を拠点に岩手、宮城、福島の三県を回って現地の方々から話を聞くとともに、3人でこれからの活動を話し合うことにした。

 しかし、3人には若干のためらいがあった。「こんな時に、ただ話を聞くだけで被災地に行ってよいのだろうか…」。もちろん、この後の中長期的な支援を見据えてのことだ。それでも何か釈然としないものがあった。

 「文具レスキューパックを届ける」というアイデアは、そんな思いも影響したのかもしれない。「避難所やボランティアセンターではペンや紙が不足し、段ボールの切れ端を使っているところもある」という遠藤の情報から、ファシリテーションの現場で使用することの多い文具類を一まとめにしたパックをつくって持っていくことにしたのだ。徳田は早速、会員メーリングリストで文具類の寄付を呼びかけた。一括して購入することも可能だったが、「広く呼びかけることで、多くの会員に支援活動に参加してもらいたい」という鈴木のアイデアからだった。

 呼びかけから四日後の4月7日、日時指定の宅配便がつくば市民大学に続々と届いた。開封済みだがまだまだ新しいもの、このために新たに購入したと思われるもの。大量のマーカーやコピー用紙を、「荷造りを手伝いたい」と神奈川県から駆けつけたFAJの会員と共に徳田が仕分け、最終的には15セットの「文具レスキューパック」が完成した。

 

 

 最大規模の余震があった翌日の4月8日。徳田と鈴木は仙台へと向かった。徳田の車の後部座席には、ガソリン携行缶や携帯トイレ、水、そして文具レスキューパックがうず高く積まれていた。常磐道・磐越道・東北道とも、路面には多くの段差が残るものの、報道で聞いていた開通当初の悪路は解消されていた。すれ違う車のほとんどは緊急車両だった。

 仙台までの車中、会話が途切れることはなかった。震災後の日々のこと、ファシリテーションのこと、そしてこれからの災害復興支援室のこと。4時間はあっという間だった。

 遠藤宅に着くと、3人はすぐに宮城県災害ボランティアセンターを訪問した。ここには地元はもちろん、全国から駆けつけたNPOや各地の社会福祉協議会など十数団体が支援に入っており、毎日18時から定例ミーティングが行われている。3人は、持参した文具レスキューパックを渡すとともにさっそく会議に同席し、現地での情報収集をスタートした。ミーティング終了後にも、支援P(災害ボランティア活動支援プロジェクト会議)、全国社会福祉協議会近畿・中国・四国ブロック、せんだい・みやぎNPOセンター、防災科学技術研究所、宮城県社会福祉協議会、つなプロ(被災者をNPOとつないで支えるプロジェクト)など、多くの団体から個別にヒアリングの時間をもらうことができた。

 ヒアリングをしながら、3人はあるルールを自然に共有していた。それは、ファシリテーションという「こちら側の視点」だけで聞かない、現地で支援に携わっている人たちの思いも一緒にお聞きする、というものだった。

 9日は、岩手県一関市のいちのせき市民活動センターへ向かった。同センターを市から受託しているレスパイトハウスハンズの代表の小野仁志さんはFAJ会員でもあったのだ。「ファシリテーション」という共通項を持っていたこともあり、ヒアリングは充実した時間となった。また、4月末にいわて連携復興センターが結成される予定であり、小野さんがその設立メンバーに入っていることから、その第一回会議でFAJとして何らかのお手伝いができないか、検討していただくこととなった。

 この日はもう一人、やはりFAJ会員で、仙台市にある杜の伝言板ゆるるの代表を務める大久保朝江さんに会い、ファシリテーションによる復興支援の可能性について意見交換をした。そして10日は、福島県いわき市のいわき市地区災害ボランティアセンターを訪問し、国際NGOシャプラニール=市民による海外協力の会などへのヒアリングを行って、活動は終了した。

 

 

 3日間という限られた時間ではあったが、どのような被害があり、どのような人たちが苦しみ、どのような人たちが支援を担っているのか、その一端を垣間見ることができた。災害復興支援室では、すでに「地域コミュニティの再構築・住民主体の復興支援」と「支援機関同士のネットワーク強化」という二つを活動の柱として設定していたが、この段階ではまだ前者のニーズが顕在化するには至っていないのに対し、後者、すなわち支援機関をつなぐ活動においては、ファシリテーションがすぐにでも求められているというのが三人に共通する感覚だった。実際、東京では遡ること3月30日にJCN(東日本大震災支援全国ネットワーク)の設立総会が開催されており、FAJからも徳田と小藤が出席して、その後の連携・協働につながる最初の一歩を踏み出していた。

FAJとしての、ファシリテーションによる復興支援。いよいよ現場での活動が待っていた。

 

 

 

※災害復興支援室の2011年度〜2014年度活動報告書「ファシリテーション、わたしたちにできること〜2011年3月から4年間の物語」(印刷版)に続く

そして、現地へ

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